ISEKI
夢ある農業応援団
販売会社一覧 お問合せ サイトマップ サイトについて
ホーム 商品情報 営農情報 企業情報 投資家情報 採用情報 ENGLISH
中文
情報玉手箱 > 井関の歴史

夢ある農業応援団
めざましごはん
農政トピックス
これからの展示会日程
展示会プレビュー
最新広告とテレビ℃M
ISEKI グッズショップ
壁紙ダウンロード
井関邦三郎創業者ヒストリー
地域のニュースと話題
さなえ図画コンクール
クイズなるほどBOX
暮らしと健康
多目的リンク

井関の歴史
 
井関農機は、1926年(大正15年)創立し、現在まで「需要家に喜ばれる製品を」を合言葉に新技術を折り込み開発をしてまいりました。是非、ヰセキが歴史をかけた自信作である商品のすばらしさを「体感」「試乗」していただきたく全国のヰセキのお店へどうぞお気軽にお立ち寄りください。
 ヰセキトラクタの進化
 


畑作中心の欧米で生まれ育ったトラクタを
如何にして日本の水田にマッチさせるか…。
これこそが日本におけるトラクタ開発の最大のテーマだった。
海外の技術を吸収しつつ、日本型トラクタを完成させた歴史を検証する。

■初の自社製トラクタTC10そして名機TB20の誕生へ
   

↑他を圧倒した八郎潟でのテスト。


↑TB20での富士山登頂。

 ヰセキトラクタの誕生は昭和34年。“チェリートラクタ”と呼ばれたTC10・15型です。ビクターオート社の空冷2サイクルディーゼルは、最新鋭のエンジンでした。  昭和39年、TC型のロータリ作業における弱点を克服したTB15が、翌40年にはTB20が発売されます。川崎航空機工業製の空冷4サイクルディーゼルエンジンは夏冬を通して安定していました。小型・軽量で始動性や走行性能、ロータリ性能に優れ、日本の水田作業への高い適性に注目が集まりました。  昭和41年、秋田県八郎潟でのトラクタ性能テストでは、外国製の大型トラクタが次々に湿田に沈んでいく中で、他を圧倒する性能の高さを実証しました。  翌42年には、京都大学農学部トラクタ研究会がTB20を駆って富士山登頂を敢行。見事に成功を収めた様子が全国に放映され、同機の高い性能が社会に認知されました。

■北海道シェアNo.1を獲得 純国産初の大型トラクタ
 
一方、30馬力以上の大型トラクタは、独ポルシェ社と昭和37年に販売代理契約、同38年に技術提携を結びTP219、309、329の3機種を発売。同41年に提携は解消されましたが、ポルシェの優れた設計思想は後々までヰセキのトラクタ開発に生かされました。
 ポルシェの後継はチェコスロバキア製のゼトアトラクタTZ型(37〜85馬力)です。始動性と牽引力に優れた大規模畑作用トラクタでしたが、さらに水田性能を高めたものが48年から生産されました。
 大型トラクタ市場において海外を含む他メーカーとの競争に勝つための純国産機として開発されたのがT6500(65馬力)・T5000(48馬力)です。ポルシェやゼトアの長所を継承しつつ、油圧能力や重量バランスなど大型トラクタに求められる安定した性能をすべて兼ね備え、北海道での販売シェア首位の座を獲得しました。
 
■中型トラクタの礎となった名機TS2400
 
 昭和45年、TB型の後継機となる水田用中型トラクタがTS2400です。水冷エンジン(いすゞ製)を搭載し、水田用トラクタの完成域に近づいた最初のトラクタといわれています。その後のヰセキの中・小型路線は、TS型のバランスや3点リンク、PTO、ウエイトトランスファーなどトラクタとしての基本点を踏襲しつつ、油圧や電装などに最新技術を盛り込んで進化を遂げ、TL型、TA型、TG型、AT型へと受け継がれていきました。
 
↑当時のカタログの表紙
 
 
 
 ヰセキ田植機の進化
 


ティラーアタッチメント式からフロート式、そして乗用式へ‥、
田植機の進化の過程には常に未知の課題が立ちはだかっていた。
ピンセットで稚苗をつまみ上げる研究から始まった田植機開発の真実に迫る。


 
■実用化に向けた植付け方式の開発
   

↑ティラーアタッチメント方式のP4A



桜田淳子さんを起用した「さなえ」の広告

 日本における田植機の研究は明治31年に遡りますが、昭和30年代までは実用化の目処が立っていませんでした。昭和41年、土付の稚苗(ヒモ状苗)を植える(切断同時植え込み)テイラーアタッチメント方式の動力田植機P4Aを商品化しました。しかし、ヒモ状苗は一般市場での評価が得られなかったため、これに代わるバラ播きマット苗用円筒式の植付け技術を開発。43年、PC20として商品化しました。

■フロート式の初代さなえで トップシェアを獲得
 
作業中に機体の重みで圃場に沈みやすい車輪式の欠点を解消するため、機体の底部に接地面積の広いフロートを装着し、他社が既に採用していた1輪前傾苗タンク式ではなく、独自の2輪後傾苗タンク式を採用。結果的にこれが大成功を導くこととなります。46年、機体の軽量化、重心バランス、フロートの材質などの研究を重ねて開発されたPF20は「さなえ」の愛称で発売を開始すると、それまでの田植機シェア7.3%を1年で23.5%にまで急上昇させました。
 
■お客様とともに取り組んだ 乗用田植機の開発
 
昭和50年代に入るといよいよ乗用型田植機の時代です。開発には、人手不足に悩まされていた農家が積極的に試験圃場を提供するなど、お客様と井関農機が一体となって取り組みました。その結果生まれたのがPL620とPL820です。
 昭和53年に発売されたPL620とPL820は、業界に先駆けて開発した後方植えを採用しました。四輪駆動方式は圃場条件を問わない安定した植付精度を発揮。運転席に乗ったまま苗補給ができるなど画期的なアイデアがふんだんに盛り込まれ、今日に通じる乗用田植機のベーシックモデルとなりました。
 
■クランク式からロータリー式へ
 
 田植機の開発初期における実用化のポイントは、水苗代から稚苗(2〜3葉)を傷めないようにピンセットでつまみ上げる技術でした。田植機の主流が歩行式から乗用式に移行すると、それまでのクランク式に代わってロータリ式が採用されました。従来のクランク式(1条に1つの植込杆)は人間が苗を植える動きをクランクに置き換えたもので、1本の爪で1分間に350株植えるのが限界でした。それに対してロータリ式は、回転するギヤケースの両端に爪をつけて苗を摘み取る方式で、作業スピードをクランク式の2倍に引き上げました。
 
↑当時のカタログの表紙
 
 

 ヰセキコンバインの進化
 


世界初の自脱型コンバインが誕生した背景には
当時、国内随一といわれた最先端の刈取り技術と脱穀技術があった。
3年に及ぶ試行錯誤を経て確立したコンバイン技術は
広く日本の農業発展に貢献している。

■刈取り・脱穀技術を一体化させた水稲対応のコンバイン
   


HD50に記された“Frontier”のロゴマーク。



HD50での収穫。

 昭和37年から政府は農業構造改善事業の一環として大型コンバインの導入を推進しましたが、外国製の普通型コンバインは日本の水田稲作に不向きであるため、日本型コンバインの開発が求められていました。
 井関農機では38年から自動脱穀機に刈取機を組み合わせた「自脱型コンバイン」の開発を本格化。当社はそれぞれの分野で国内随一の技術を有していたものの、これを一体化させた例はありませんでした。
 41年、3年の試行錯誤を経て、世界初の自脱型コンバインHD50が完成しました。このとき培われた技術は特許解放され、その後の日本農業の発展に貢献しています。
 このHD50は本来歩行型でしたが、その後、乗用型の要望が高まってきたため、44年、機体後部に折りたたみ式の座席を設けた乗用歩行兼用型のHD50Rを開発。翌45年には初の乗用型HD650とHD660を発売しました。

■今日の基礎技術を確立した全面刈りHD2000
 
大型コンバインの夜明けは、初の完全全面刈りHD2000(4条刈り)です。それまでの側条刈りタイプは刈取部が機体の側面にあるため、圃場の外側から一定方向にしか刈ることができませんでしたが、全面刈りタイプは刈取部が機体の前面にあるため圃場のどこからでもどの方向にでも刈ることができました。
 そのほか走行部に搭載したHSTや刈取部のY字形搬送方式、車体前方に設けた運転席など、HD2000で採用された機能やコンセプトは今日のコンバインの基礎となっています。
 
■大きな反響を呼んだ無人コンバイン
 
昭和51年、それまでに蓄積したコンバインのノウハウを結集して無人コンバインを開発しました。HD1500(3条刈り)をベースにACD(自動方向制御装置)、ACH(自動刈高さ制御装置)、ACF(自動供給制御装置)、ACT(自動回行制御装置)、ACP(自動袋詰め装置)、ACS(自動停止装置)といった最先端のメカトロニクスを搭載し、完全自動化の無人運転を可能にしました。デモンストレーション用の試作機として28台が生産され、全国の実演会で大きな反響を呼びました。商品化はされませんでしたが、このときの自動化技術は、コンバインの基礎技術として今に生きています。
 
↑当時のカタログの表紙
 

▲ページトップへ戻る

 

ホーム商品情報企業情報投資家情報採用情報English 井関農機株式会社